ぴろの狂人日記

2014年から頑張ってブログを継続しようと思います。「継続と習慣」を今年の目標にしたので、頑張って更新を続けようと思います。おいおいはレビューや数学や認知科学などについて記事を書いていければと思っています

佐村河内さんの騒ぎの件で、読売新聞に三人の識者が投稿していた。うち二人の文章を抜粋する。

そもそも西洋音楽は、長い歴史と伝統の上に成立したとても洗練された芸術様式の一つだ。そのエッセンスは「物語」ではなく「音」そのものを一つ一つ積み上げることによって音楽を語るところにある。(細川俊夫

昨年発覚した食品偽装問題でも感じたことだが、私たちは自らの感性で食べ物や音楽を味わい、その良しあしを判断する能力が衰えてきていると思う。自分で判断できないから、わかりやすい感動にすがってしまう。そして、だまされたとわかると、自分を棚に上げて一方的に非難する。本当にそれでいいのだろうか。

交響曲第一番」の作者は耳の聞こえる別の作曲家だった。その事実が「曲そのもの」の価値をそれほどまでにおとしめるのだとしたら、私たちはそもそも「曲そのもの」を聴いていなかったことになる。ただ泣ける音楽がほしかっただけかもしれない。そこに最大の反省点があると思う。(岡田暁生)

とても共感できて、すかっとした。

しかし一方で、自分としては少し消化しきれないものもある。

クラシック音楽が芸術として確立している。これについては自分を含め、大抵の人は合意してくれるだろう。

その他の音楽、例えばPopsを初めとして、民族音楽や雅楽などは芸術とは言わないのだろうか。芸術と呼ぶかどうかはともかくとしても、素晴らしいものであることに変わりはないのだが。

それぞれの音楽は扱われ方が違うように思う。

クラシック音楽では主に「曲そのもの」または、作者によって曲をみる。一方でPopsでは演奏者(歌手)によってみられることが多い。また、そもそも作者不明の曲もあったりもする。

Popsをどの位置に置くかというのはわからないが、民族音楽など作曲者不明のようなものは、文化と呼ぶほうが適当な気がしてならない。

そういう視点に切り替えをしていくと、Popsも芸術というより文化なのだという見方もできるような気がする。

個人的にはPopsというのはあまり好きではない。クラシック音楽だけを特別扱いするのではなく、その他の音楽と同様に芸術としてみようとは、気をつけてはいるが、やはりPopsはあまり好きになれない。もちろん中には素晴らしい曲もあるのだが。

作曲者が表にでることはあまりなく、どちらかというと演奏者(歌手)が表にでている。

歌手に作曲者が提供をしているという構図であって、一見したところでは歌手(演奏者)のほうが立場が上に見える。

そういう意味でアウトソーシングが行われているので、曲自体を制作した人の哲学というのが間接的で見えにくい。

だが、芸術ではなくて文化としてみれば、少し親しみもわいてくる。

そういうような思考を巡らせていくと、芸術と文化の違いなどがよくわからなくなってくる。

ながながと書いたがこのエントリーで結論はでない。もう少し掘り下げて考えてみる必要があるようだ。