ぴろの狂人日記

2014年から頑張ってブログを継続しようと思います。「継続と習慣」を今年の目標にしたので、頑張って更新を続けようと思います。おいおいはレビューや数学や認知科学などについて記事を書いていければと思っています

「語り」を機械に置き換える

終戦70周年、そして8月は原爆が落とされ、まさに終戦となった月でもあります。
 
メディアなどでも終戦に関する特集が盛んになされています。
 
70年経っているので、戦争を直接体験した方も、亡くなっていたり、高齢になっていたりし、どのようにして戦争の体験や記憶を保存するのかとうのが、課題になっています。
 
戦争の体験を直接語るということに着目すると、そればかりは普通に考えたら生身の人間でなければならないので、今生きている人が亡くなってしまうと、直接の口頭伝授というのはできなくなってしまうわけです。
 
一方で、最近は人工知能の研究も進んでおり、人間の能力の機械での代替が進んできています。
 
終戦の特集で、高齢の方が悲惨な体験を語っているのを見ていると、(当然人間は永遠に生きられるわけではないので)、こういう語りを聞くことができるのも時間は限られているので、それを機械に代替させることはできないのかなと考えてしまいました。
 
こういう単純化が正しいのかわかりませんが、「体験を語る」にしても、語るその人がそれまでの人生で覚えた(インプットした)単語や表現などを組み合わせて語るしかないわけです。
 
「その人が記憶している単語・表現」というものを、「過不足なく」抽出するというのはなかなか難しいところだとは思いますが、もしそういうことが可能なのであれば、語りを機械に引き継ぐということも可能なのでしょうか。
 
それとも「語り」というのは、言葉の選び方以外の部分、例えば「その人の滑舌」、「語るときのリアルタイムの感情の起伏」、「イントネーション」、「表情」なども含めたこともいうのでしょうか。というより、そういうことまで完全に一致して、初めて「語りを機械に代替できた」というのでしょうか。
 
言葉の選び方以外の部分に関しては、その人に近づけることはできると思いますが、完全に一致というのは不可能だと思います。
 
完全一致は不可能だとしても、限りなく近づけることは可能だとしても、それはそれで十分意味のあることだとは思いますが。